4人の意見陳述

 意見陳述は、裁判の中で判決を公平に下すための判断材料として、自分たちの言い分を裁判官にしっかりと伝えるためのものです。埋立工事の妨害で4800万円の損害賠償を訴えられた4人がこの裁判で意見陳述を行いました。

 

 ここに載せているものは、実際にこの4人が裁判所で読み上げたものです。何故、身体を張って人生を懸けてまで上関原発を止めようとしているのか、そこにどんな想いがあるのか、述べています。

 

橋本久男の意見陳述

  

意見陳述書

2010年

被告 橋本 久男

私は、この訴訟で被告の一人とされている橋本久男です。

 1967年に祝島中学校を卒業してから島を離れ、島外での仕事に従事してきました。

 1978年からは、祝島に住所を戻し、岩国で配管業に従事しました。岩国での配管業の仕事は9年に及び、その期間には岩国発電所や下松発電所などの火力発電所の配管作業へも携わりました。中でも私の人生に大きな影響を与えたのが、1981年に、福井県敦賀市の原子力発電所、敦賀発電所2号機で、配管作業に従事したことでした。このとき、敦賀発電所2号機では、一般排水口からの放射能物質漏れ事故をおこしており、3週間という短い期間でしたが、赤い作業服を着て、炉心に近い場所で作業したことを覚えています。

 

 胸に放射線を探知するアラームを携行しての作業は、いつも恐怖と隣り合わせでした。ひどい時は10分ほどでアラームが鳴り、退場しなくてはなりません。また、作業従事者には被曝手帳もつくられ、精密検査も行われました。この検査で、一緒に従事していた人も含めて、白血球の数が異常に減少していたことを覚えています。この経験は、原子力に対する恐怖心を植え付けたものでした。また、原子力の危険性と、常に被曝者を生み出していることを痛切しました。

 

 その後、原子力発電所での仕事を続けることへの恐怖心から、途中で仕事を引き上げました。それ以降も、原子力発電所での作業の話が何度かありましたが、行く気にはなりませんでした。被曝者を生む原子力は、平和利用できません。私たち生命は、原子力と共存できないのです。

 

その翌年1982年に、上関町で原子力発電所建設計画が持ち上がりました。当時、敦賀発電所で作業に従事していたことから、祝島共同漁業組合の理事をしていたちち・橋本友治から、原子力発電所について話を聞かれました。私は、危険性や恐ろしさを話したのを覚えています。ましてや、計画地が生活しているすぐ目の前であり、豊かな漁場であるため、絶対に建たせてはならないと父に話しました。

 

その後、祝島では「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の前身である「愛郷一心会」が立ち上げられ、父も中心的に原発建設の反対運動を続けていました。その4年後、父は心半ばで、他界しました。とても無念でした。そのようなこともあり、私は父が他界した翌年の1987年に祝島に戻り、父の漁を継ぎ漁師になりました。それ以降、今に至るまでの23年の間、たてあみ漁・タコつぼ漁・イカス漁・素潜りなどの漁業に従事し、海の恵みを受けて生きてきました。

 

私たちは漁業補償金を拒否し、海の恵みで生きることを選びました。私たちの権利は、お金や権力によって奪えるものではありません。私たち祝島漁民は、海を売ってはいないのです。

 

 昨年9月からはじまった埋め立て工事に対して私たちは、自分たちの生活や海を守るために、漁船を連ね、連日にわたり海上で抗議してきました。対して中国電力は「一次産業では生活していけなくなる」という暴言を言い、漁船名や人名をマイクで読み上げ、個人攻撃をするなど非人道的な行動をとってきました。その行為に対して、私たちは非暴力の意思表示を貫きました。

 

 海で生きている私たち漁師にとって、田ノ浦の海を埋め立てられることは死活問題です。これまで長い間、先祖代々、守り継いできた生活や命のつながりを断たれることになります。さらに原子力発電所が建設され運転が開始されることになれば、大量の温排水や塩素の影響で周辺は死の海になります。他の原発のように事故が起これば、離島の私たちは孤立してしまいます。閉鎖性水域である瀬戸内海に原子力発電所を造ることは、瀬戸内海全域の自然の生態系と漁師の生活を根底から壊すものです。

 

 私たちは、原子力発電所計画が持ち上がった当初から、一貫して正当な理由を持ち、原子力発電所建設を反対してきました。それに対して中国電力は、巨額な利権と、強大な権力を使って、地元住民のつながりを破壊し、生活を圧迫して、計り知れない多大な損害と疲弊をもたらしてきました。私たちは、自分たちの生活を不当に侵害する中国電力に対して、非暴力で抗議してきたにすぎません。

 

 地元住民である私たちを、自分たちの利益追求のために、損害賠償で押さえつけること自体、間違っていることではないでしょうか。私を含め被告とされている4人がこのような損害賠償を請求される覚えはありません。

 

 私は生まれ育った故郷の上関の海を誇りに思っています。原子力とこの美しい命の海は、決して共存することはできません。私にはこの祝島で安心して暮らす権利があります。私たち漁師には海を守り、受け継いでいく責任があります。地元住民を権力で押さえ付ける中国電力には、私たちの生活や命の海を犯す権利はありません。

 

 私たちは、計画が取り下げられるまで非暴力かつ正当な反対運動を続けていきたいと考えています。

 

清水敏保の意見陳述

意見陳述書

 

        平成22年5月13日

被告 清水敏保  

 

 

1.私は、この訴訟で被告の一人とされている清水敏保です。 私は、祝島の中学校・高校を卒業し、一度島を離れましたが、昭和50年に実家の青果業を継ぐため祝島に帰り、59年から島で海上運送業で生計を立てています。

  中国電力の原子力発電計画が表面化した昭和57年以来、島の人々とともに反対運動を行っています。平成6年からは島の人々の思いを代弁するために、原発反対の立場で上関町会議員となり、原発のない安心して暮らせる心豊かなまちづくりのために全力を挙げています。

 

2.さて、私たち島民は、この28年間というもの徹底して「非暴力直接行動」で中国電力と戦ってきました。今までも、私たちは決して手を出していませんし、トラブルとなったときでも海上保安庁が間に入っていたのです。

  昨年の9月10日頃、中国電力が工事のためブイを田名埠頭から積み出そうとしていることを知り、前日から泊まり込み、海上では漁船やシーカヤックで防衛線を張って平穏に抗議活動をしていました。このような抗議活動は10日ほど続くのですが、その間、中国電力は「農業や漁業だけで将来島の生活は成り立たなくなる」「高齢者が多く抗議活動を止めて帰りたい人もいるのではないか」等と暴言の数々を吐きました。これには本当に頭に来ました。

  

  10日間ほどの抗議活動を行い、私たち島民が疲労困憊しましたが、シーカヤックは頑張っていました。そうすると、中国電力はカヤックに対しては敵意剥き出しで危険な作業を行うようになりました。そこで、私たち島民は急きょカヤックを救援に走ったのです。このように、中国電力は相手によってはとても暴力的な対応をすることを覚えておいて下さい。

 

3.11月5日から、中国電力が取水口予定地や田ノ浦湾で測量を開始しました。

 私たちの抗議活動は、変わらず平穏な非暴力的行動でした。私たちが船を近づけて中国電力のしている工事内容を聞くだけでは、妨害行為とは言えないでしょう。 これに対して、中国電力側は人目(マスコミや海上保安庁の目)があった田名埠頭のときとはうってかわって、暴力的になりました。

  

 中国電力に協力する原発推進派の漁船は、平穏に抗議をしているシーカヤックを、平気で水竿で突き放したりします。また、中国電力のクレーン船も漁船やシーカヤックが近くにいるのにクレーンのアームを回転させてコンクリートブロックを海中に投下をしようとするのです。

  7日には、シーカヤックが、このような中国電力の危ない行動を止めようとしてワイヤーをつかみました。シーカヤックを転覆させたり、あろうことかカヤッカーをそのまま台船につり上げるという暴挙に出ました。私は、到底見過ごすことができず、抗議のため浚渫船にあがって、座り込みました

  

 その翌日には、危険な中国電力の作業を止めようとした同じく被告の岡田君が、中国電力の作業員に首を絞められ意識を失うという暴行を受けました。 私たちは、このような中国電力の作業を止めようとして、クレーン船に私の漁船を接舷させたりしました。また、アンカーブロックを落とせないようにするためそのうえに座り込みました。

 

4.どうでしょう。

  私たちの活動はつねに非暴力的なのに対し、むしろ中国電力側が危険な行為をしているのです。

 このような状況の下で、中国電力は、さらに、予定通りに工事ができなかったのは私達の妨害行為のせいだとし、本件訴訟で損害賠償を請求しているのです。

 これは、正当な抗議活動に対するあからさまな弾圧行為です。私たちは、中国電力の提訴に対しては、今回の私たちの抗議活動に対して中国電力がおこなったことを明らかにして、中国電力の悪事をはっきりさせていくつもりです。

  そして、かけがえのない私たちの海を守っていくために全力を尽くしたいと考えています。

 

                                 以上

岡田和樹の意見陳述

意 見 陳 述 書

2012年10月17日 

被 告  岡 田 和 樹

 

 私は瀬戸内で生まれ育ちました。小さい時から自然に触れ、それが原体験になっています。春には野原でツクシやワラビを採ったり、夏になると海で泳ぎ、潮干狩りや釣りをし、秋になると野山で山ブドウやアケビを採ったり、冬には落ち葉を集めて焚き火をして焼き芋を焼いたりしました。小学生の時に、地元、三原市にある天然記念物の絶滅が危惧される生物ナメクジウオに出会い、瀬戸内海の環境に興味を持つようになりました。高校生の時にはそのナメクジウオの生息環境の調査や、海砂採取によって減少したオノミチキサンゴの調査を行い全国最優秀賞も頂きました。高校を卒業してからは、地元の漁師さんの船に毎日乗せてもらい、刺し網や、底引き網を手伝う傍ら、瀬戸内海の豊かさや環境の変化についての聞き取りを行っていきました。その中、2005年12月、地元の人たちに「ハチの干潟」と呼ばれ、手つかずのまま残されてきた干潟に、埋め立て計画が持ち上がりました。

 

 その干潟には、瀬戸内海の各地で失われていった「海のゆりかご」アマモ場が広大に繁茂し、自然海岸から広がる干潟には多様で無数の生き物たちが生息していました。私は、何としても自分たちの世代で守り、受け継ぎたいと思い、計画が持ち上がった次の日から、干潟に通い調査を続けていきました。そして、観察会や学習会、陳情などを通して、地元の人たちや、市議会、県議会などへ貴重なハチの干潟を受け継ぎたいと働き掛けていきました。最初は小さな声でしたが、地元での声も次第に広がって大きくなっていきました。2年の取り組みの後、反対署名を集めはじめました。署名は1カ月半で市の人口の半数を上回り、それを持って県や市に訴えました。2007年3月、市議会では埋め立て反対意見書を可決。県も工事に難色を示し、ハチの干潟の埋め立て計画は取り下げられたのです。そして、私たちの世代がこの瀬戸内の貴重な干潟を受け継ぐことができたのです。

 

 時を同じくして、同じ瀬戸内海で原子力発電所の建設計画が続いている事を知りました。原子力発電所から出る毎秒90トンもの大量の温廃水は、現地の生態系だけではなく、私の地元広島の有名なカキにも影響を及ぼすでしょうし、それだけではなく、受け継いだハチの干潟にも影響を与えるでしょう。そして、最終的には自分たちの生活にまで関わってきます。何より建設計画地の自然を見た時に、瀬戸内海にこんなに美しい自然が手つかずのまま残されてきた事に驚きました。私たちの地元では見る事の出来なくなったスナメリが泳ぎ回り、海砂採取で濁れてしまった海で育った私には見たこともない透明度と、生き物たちの豊かさがありました。そして、これはなんとしても残していかなくてはならないと確信したのです。

 

 それとともに、30年近く一貫して原発による巨額の補償金を拒否し、先祖代々受け継いできた「いのちの海」を守ってきた祝島の人たちに出会いました。中でも漁師さんたちの思いは切実でした。原発建設によって失われようとしていた海は、かかり釣りの好漁場で、瀬戸内海で数少なくなった一本釣りの漁師さんたちが、未だに漁で生計をたてていました。それはこの豊かな「いのちの海」を守ってきたからなのです。そこを埋め立て、原子力発電所を建てるということは、祝島をはじめとする地元の人たちの命や生活を奪うことに他なりません。それだけでなく、地震に対する地質調査や、環境アセスメントもずさんな調査が繰り返され、国の専門機関から再調査を求められたり、日本生態学会はじめ複数の学会から工事中止を再三にわたり求められたりしていました。さらには、お金と権力により地元を分断し、選挙に至っても不正転入が摘発されたり、事故の時の避難対策なども決まっておらず、「安全神話」によって多くの人命をも軽視したりと、中国電力の進め方自体にも大きな問題がありました。私には国策と独占的な企業による、一方的で、目先の利益を追順する行為にしか見えず、何が正しいかすぐに判断できました。

 

 その後、広島の若者と「上関原発を考える広島20代の会」を立ち上げ、反対署名を山口県へ届けたり、中国電力へ抗議したりしました。しかし、私たちの小さな声は無視され、その間工事が強行されていきました。私たちにとってもはや、工事が進められている現地が最後の抗議の場となりました。私は祝島の漁船とともにカヤックに乗り、埋め立ての阻止行動を行いました。全国からも多くの声が届き、様々な人が駆け付け、同じ様に阻止行動を行い24時間体制にわたる必死の座り込みで工事を止めていきました。2009年10月の埋め立て着工の期限が迫る中、中国電力は闇討ち的に工事を進めるなど、かなり強引になってきました。予定地では、漁船やカヤックが入り乱れる上を、クレーンが大きなコンクリートブロックを旋回させ海に沈めこむ、極めて危険な作業が繰り返されました。私たちは必死に危険な工事をやめるよう抗議を行いました。

 

 しかし、工事は進み、2009年11月7日、抗議していた人が台船のクレーンに吊り上げられるという事件が起きました。私は危険な工事を止めるためにカヤックから海に下り、クレーンのワイヤーを掴みました。しかし、工事は止まるどころか、中国電力の作業員が3人がかりで推進派の漁船へ引きずり上げ、甲板に押し倒し、首や手足を羽交い締めにしました。そして、コンクリートブロックを設置する間、身動きができない状態で拘束され苦しい時間が続きました。私は意識がもうろうとなり、緊急搬送され5日間の入院を要しました。

 

 その後、医師の診断書と暴行を受けている映像を証拠として2009年11月に刑事告訴を行い、現在も山口検察審査会に申し立てを行っています。しかし、その後も80歳の祝島の女性を中国電力JVの社長がひざ蹴りしたり、座り込みをしていた女性の上に中国電力の警備員が何人も傾れ込んで、緊急搬送されたりという事件が繰り返され、権力やお金で地元を押さえ付けるのみならず、現地では暴力や力で押さえ付ける無法な状態が続きました。

 

 私が刑事告訴を行った翌月、中国電力から不法な妨害行為を行ったとして約4800万円の損害賠償請求を起こされました。しかし、私たちは自分の命や生活を原発から守るため、また、危険な工事を止めるため非暴力で抗議していたにすぎません。また、暴力も不法な行為も行っていません。また、私は訴えられているほとんどの日数は、暴行を受けて入院しており、現地にさえいませんでした。反対する私たち個人に対して、突然に4800万円も請求することは、異議を申し立てるものへの脅しであり、時間的にも、金銭的にも、精神的にも苦痛を強いられています。ましてや、訴えるにあたった理由や根拠が定かではありません。

 

 この裁判は、憲法で保障されている表現の自由を奪うスラップ訴訟であると私たちは思います。

 

 私は広島で生まれ育ち、被ばく者から「核と人類は共存できない」と教わりました。小さな頃から両親や先生たちからも核兵器や放射能の恐ろしさを教わって育ちました。生命と相いれない核は、いかなる場合においても利用してはなりません。3.11福島第一原発の爆発事故以降、放射能が多くの人命を脅かし、自然やふるさとや安心して暮らす権利を奪いました。その影響は福島だけにとどまらず世界規模であり、取り返しのつかないものです。未だに多くの人々の犠牲を払いながら収束へ向けた取り組みが続けられていますが、事故は収束できず、将来にわたり影響を及ぼし続けることが明らかです。

 

 上関原発においても、原発事故による世論の声の高まりにより、これまで後ろ盾となってきた県からは埋め立て免許の延長はしないとの方針が出され、国も上関を含め、新規立地はしないと明言しました。原発を建設し、稼働できる根拠のない中で、埋め立て免許を申請し、この裁判を続けている事は、多くの国民、電力消費者の世論に逆行し、県をはじめ国の政策までをも否定することではないでしょうか。

 

 私たちが、原発計画に対して現地で必死に訴えてきた事は、ただ反対というのではありません。自分たちや将来に続く命・安心して暮らせる生活・生まれ育ったふるさと・豊かな海を守るための極めて当然の行動だったのです。だからこそ、非暴力でなお、懸命の阻止行動が続けられてきたのだと思います。それは、不法なものでも、妨害でもありません。私は現地での抗議行動を通して、祝島の人たちをはじめ、これまで原発を止め、私たちを守ってきてくださった方々に切なる感謝の気持ちでいっぱいです。30年の長きにわたる闘いは、言い表せない辛い犠牲を払っていることでしょう。それは推進でも反対でも同じことではないでしょうか。最後に、私も消費者の一人として、中国電力に対し、多くの犠牲の上に成り立ち、人命をも脅かす原子力発電からの撤退と、私たちの表現の自由を奪おうとする本件訴訟の取り下げを直ちに行うよう、ここに強く要求します。

 

 

以上

   

原康司の意見陳述

  意見陳述書

 平成22年7月22日

被   告  原  康 司

1.はじめに

私は、この訴訟で被告の一人とされている原康司です。

 私は、旧新南陽市(現周南市)の高校を卒業し、大阪の芸術大学に進学しました。シーカヤックに乗り始めたのもこのころで、アマゾン河を下ったり、自転車でアメリカ大陸を横断したりと人力移動での遠征を続けていました。

 

 大学卒業後は、インドネシアで真珠養殖業に従事し、海の生活を送り2年をスラウェシの離島で過ごした後、アラスカの川や海をシーカヤックで漕破する挑戦を続けていました。

 

2.祝島とのかかわり

(1)こちらに戻ってきたのは2001年の頃です。自分の生まれた海を見つめなおすために、瀬戸内海の端から端までシーカヤックで漕いだことがあります。

私の生まれた徳山は、海岸線をコンビナートで埋め尽くされ、公害が問題になった町でもあり、海もとても美しいものとはいえません。幼少時代から瀬戸内海は汚いものと思い込んでいただけに、この旅は僕の価値観を覆すものでした。

特に、上関の海に出会った時の感動は今でも覚えています。まったく人工物のない海岸線、海は透きとおり、水中を覗くとたくさんの魚が泳ぎ、海藻も驚くほど繁茂していました。スナメリが出迎えてくれたこともありました。自分の故郷の山口にこんな美しい海があったという喜びは、私に故郷の誇りというものを初めて覚えさせたのです。

 

 祝島を訪れたのもその時で、全く原発問題を知らずに、目の前に美しい島があったので、ただ渡ってみたのです。そこで漁師さんやおばちゃんたちのやさしさに触れ、古くから海と共に暮らし自然と共存してきた人達の存在を知ることになりました。高度成長期に街で生まれ育った私にとって、共同体として助け合いながら暮らす祝島の人々の姿は、とても魅力的でした。

原発問題を知ったのは、島に掲げてある原発反対を掲げた看板を見てからで、とんでもないことが起ころうとしているのだと認識したのを覚えています。

 

(2)その後もアラスカに戻り、遠征を続けましたが、2004年に山口に戻って来ました。瀬戸内海の旅で出会った美しい故郷の海なら、自分の得意なシーカヤックで生計を立てることができると思い、シーカヤックのガイドサービス「ダイドック・オーシャン・カヤックス」を開業しています。2007年には、平生町の佐合島に、子供達の自然体験の場「ダイドック冒険学校」開校し、年間を通じて活動しています。私自身も近々、佐合島に移り住む予定でもあります。

上関原発計画に反対する行動を始めたのは、2005年のころで、イベントで原発計画のことを取り上げたり、祝島の抗議行動に賛同し、シーカヤックで駆けつけたりもしました。

  私は漁師ではありませんが、海に生き、海の恵みで生活しています。

美しい貴重な海があるからこそ、仕事ができ、生計がたてられています。子供達の活動する佐合島も、原発予定地からわずか8kmの場所にあり、低レベル放射線の影響が子供達に影響を与える恐れや、事故の際、離島であるため簡単に避難できない、という危険性もあります。広大な海岸線を埋め立て、原発を建設することは、正に私の生活を脅かすものであり、建設計画に反対することは、私にとって正当な権利だと主張します。

 

3.反対行動

(1)埋め立て工事については、2008年に行った広島から山口県庁まで一週間歩き続けて、反対をアピールしたピースウォークを行ったり、若者の有志達とたびたび県庁に出向いて、申し入れを行ったりしてきましたが、まったく納得できる回答のないまま、多くの県民の意思を無視し、県知事は公有水面埋め立て免許を出し、2009年の9月に中国電力は強引に着工しようとしてきました。

 

(2)私は、中電が海域工事を着工しようとした9月10日から、祝島漁船とともに抗議行動に参加してきました。その際に、祝島島民を愚弄する度々の中電社員の言葉がありましたが、私に対しても「原発ができれば観光客が増える。あなたの仕事も増える。」といってのけました。この感覚に怒りを通り越して呆れ果ててしまいました。

 11月5日より突然始まった田ノ浦湾での作業は、当初私達もなにが起ったのか理解できていなかったので、船上から「何を始めようとしているのですか。」と、問いかけたのですが、これに対して、作業員は、全く答えませんでした。中電の社員の姿は確認できず、現場作業を監視できる体制はなく、緊迫した状況の中クレーン船が強引に作業を強行してきました。海上には、中国電力に雇われた原発推進派の漁船も多数出てきて、私たちの反対行動を阻止していたのですが、彼らは「ひっくり返してやるぞ!」と私たちに脅しをかけ、シーカヤックの間近をスピードをあげて航行したり、何百キロとあるアンカーをカヤックの真上で旋回させてきました。何度呼びかけても、強引な作業は続き、6日にはその危険作業に抗議しようと、シーカヤックの若者がワイヤーにつかまりましたが、それさえも無視し、アームを旋回させ、シーカヤックを転覆させたり、つかまった人間をそのまま台船に釣り上げたり、という暴挙を行いました。

 

(3)中国電力は、7日にも多くの賛成派の漁船を雇い、作業を強行してこようとしました。私が、作業に抗議しようと漁船の間に入ったときには、私を台船と漁船の間に閉じ込め、「腕を折っちゃれ!」という言葉とともに、船とタイヤの間に挟まった私の腕を、もやい綱を引っ張り絞めあげました。私が腕を自力で抜き出した後も、「作業が終わるまで絶対出すな!」という声とともに、台船推進派の漁船、の間に私を閉じ込めました。もしこの時、沖合を大型船が通り、引き波が起こっていたとしたら、上半身を体一つで挟まれていた私に、何が起こっていただろうかと思うと、いまでも恐ろしい気がします。

 その後も、ハッカという接岸時に船を引き寄せる鍵の付いた棒でシーカヤックをひっかけたり、手でカヤックを直接掴まれて転覆させられそうになったりました。そしてその後、同じく被告の岡田君が、作業員に首を絞められるという暴行が起こりました。私が気付いて止めに入るまで長い間首を絞め、ようやく手をほどいたときには、岡田君はぐったりとしていました。

 その後、岡田くんは病院に搬送され、その日は現場検証のために作業が止まりましたが、翌8日には、傷害事件に対する抗議と危険な作業を未然に止める為に、一つの台船のフックの上に乗り、抗議行動をしました。傷害事件を起こし、岡田君は入院しているという事態にも関わらず、他の台船で夜明け前に作業を強行しようとする動きがあったので、私たちはさらにその台船にも乗り込んで抗議行動を続けました。

 

4.結び

 シーカヤックという体がむき出しで、不安定な、わずか5m程度の小さな船に対して、エンジンのついた漁船や巨大な台船が行ったこの一連の強引で危険な作業こそが危険であり違法な行為ではないでしょうか。

 私達は原発建設に反対する正当な権利を持つ者であり、非暴力で正当な抗議行動を行っていることを理解していただけたらと思います。この損害賠償裁判は明らかに反対する住民の権利を奪う大企業が行う弾圧行為です。

 

 最後になりましたが私はこのシーカヤックで8度、瀬戸内海を横断した経験があります。水面近い目線で波を被りながら人力で進む小舟で旅すると本当に海がよく見えてきます。

 瀬戸内海全域にわたってこういった経験をしたことがあるのは私だけではないかと自負しております。そういった私の経験から見ても上関の海は瀬戸内海でもっとも自然が色濃く残った海域であり正に瀬戸内の原風景であると思います。

 これから瀬戸内海が再生していく重要な海でもあり、祝島の方々が守り抜いてきたこの故郷上関の海を私達が引き継ぎ、次世代につないでいくためにも全力を尽くしたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

ホームページ作成協力

 

写真・映像提供 東条雅之 

スナメリチャンネルより

 

中国電力スラップ訴訟止めよう会

 

制作者 岡本直也(祝島在住)